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  与論島の歴史

 
 おそらく、島中で一番高い場所だと思いますが、 
与論城跡と琴平神社は島の南側の高台にあります。


同じ場所に、与論島をはじめ奄美群島内の歴史
文化、物産、祭り 自然等の総合紹介施設として
サザンクロスセンターがありました。

 

その敷地の一角に与論の歴史を語る石碑があります
それは、自然が厳しい与論を捨て、島民が生きる為に
選んだ開拓に生命をかけた足跡です。



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長崎県口之津町へ集団移住碑
      
明治31年に未曾有の台風襲来に見舞われ島民は飢きんに陥りました。
村長上野応介翁は、子孫永代の繁栄を図るべく
私財を投じ自らが陣頭に立ち、長崎県口之津町の炭鉱への
集団移民を計画しました。
 そして、三度に渡り750名の分村移民を断行しました。
後に、三池炭鉱に定住させ移民の父として本土発展の大業を成しました。

 


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   満州開拓の史跡碑      

与論に行こうと思った日に、『鹿児島戦後開拓史』(南方新社)
を読み返しました。

その本の第一章が 

満州、そして田代へ与論開拓団
島民約600人が、中国錦州盤山に第二の与論王国を築こうと
入植しました。
昭和20年8月の終戦と共に、置き去りにされた
開拓団の女子、子供、お年寄りは悲惨な末路をたどり
中国残留孤児は今もなお解決されていません。

そして、
戦後、生き残った人々は鹿児島県の大隈半島田代に再入植されています。



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   第二次大戦慰霊碑   


 現在美しい南のリゾート地として、都会の人を癒してくれる与論島
でも、与論開拓団の人の回顧にもあるように
ふるさとがあまりにも貧しく、豊かでないだけに
歴史的にふる里を捨て二回の開拓をせざるをえなかったと~

私も今も開拓に携わる身として、歴史をきちんと受け止め
外地で開拓に散った開拓民の志を少しでも受け継いでいこうと
決意しました。(合掌)

「開拓の危機はいくどでもくぐろう
 開拓は決して死なん」 (高村光太郎)

                          萩原新一

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コメント (2)

池田和則:

私の古里,錦町の地に舞い降りていただいて,素晴らしい事業展開をしていただいて,感謝しております。私は,福岡におりますが,例のゆずりはの主であった正臣の弟です。兄の絵を鑑賞していただき,ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
池田和則

池田和則:

私の古里,錦町の地に舞い降りていただいて,素晴らしい事業展開をしていただいて,感謝しております。私は,福岡におりますが,例のゆずりはの主であった正臣の弟です。兄の絵を鑑賞していただき,ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
池田和則

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